『谷崎文学の語り部』と言われる女性が西宮にいる。武庫川女子大学文学部教授のたつみ都志さん。NPO法人谷崎文学友の会を立ち上げ理事長も務めている。現在、谷崎潤一郎が自らデザインし震災で全壊した家を鎖瀾閣(さらんかく)と名づけ復元運動を展開中。西宮ともかかわりの深い谷崎についてお話を伺った。
【プロフィール】
武庫川女子大学文学部日本語日本文学科教授。 NPO法人 谷崎文学友の会理事長、芦屋市谷崎潤一郎記念館 副館長
関西学院大学大学院博士課程修了。二男一女の母。映画鑑賞・旅行・陶芸が趣味
「私が谷崎潤一郎と出会ったのは遅いんですよ。大学の卒論は三島由紀夫のつもりだったんですが、ちょうどあの割腹自殺事件がありまして…。もう、頭が真っ白になってパニックになりましたね〜。
ですから卒論は自然主義の島崎藤村で書きました。修士論文は田山花袋でしてね、谷崎潤一郎と出あったのは、実に大学院のドクターコースのときだったんですよ。遅いでしょ??」
テンポのいいお話が始まった。場所は、武庫川女子大学の13階のラウンジ。ここにたつみさんの研究室がある。何十年ぶりの学生気分を味わい、メモをとる手が軽やかな気がする。
「実は、私にはトラウマがありまして…。10歳のときに『鍵』を手に取る出来事があったんですよ。全く理解できず、1ページ読んでやめました。だって、10歳の子に56歳の性的不能の男の話はわかりませんよ(笑)。
以来谷崎には拒絶反応だったんですが、大学院のときに『痴人の愛』が演習で取り上げられ、やむを得ず読みました。当時私は主人公のナオミと同世代。しかも男性が女性にひれ伏す、こんな気持ちのいい小説はないです(笑)そこからは、一気に谷崎に惹かれていきましたね。」次々繰り出されるお話を聞いていると、旧仮名づかいの文学が、すぐ今のことように思えてくる。
阪神間での谷崎の足跡・・・研究されていないなら私がしなければ。
「で、谷崎のことを調べ始めたら、本当に何の研究もされていなかったんですね。作品論は多少ありましたけど、阪神間での谷崎の足跡の調査が全くなかった。これは、私がしなければ…と思いました。だって、この西宮で大学生活を送り、ここで教鞭をとっているんですから。
それから谷崎の動向を調べ始めたんですが、ちょうど同じ頃に西宮の霞町にお住まいの、谷崎愛好者の方が阪神間の谷崎の転居先を調べておられて、これはバッティングするな、と(笑)それで、私は阪神間だけでなく関西での足跡を追い始めたんです。
その成果を最初に書いた本が『ここですやろ谷崎はん〜谷崎潤一郎・関西の足跡』なんです。それ以来『谷崎の語り部』といわれ始めたようですね。」
谷崎潤一郎は転居魔といわれていたほど、転々と居を変えたらしい。文学と場所をキーワードにした研究はきっと大変だっただろう。その反面、おもしろさも大きかったのではないかとも思う。
関西を離れてみて、あらためてその魅力にきづきました
「実は、その最初の本を書いたのは甲府だったんですよ。夫の仕事の都合で一時期武庫川女子大の職を辞して山梨に居ましてね。でも関西を離れたことで改めて関西の魅力に気づき、谷崎と関西を語るのは自分しかいない…って思ったんですよ。
結局3年ほどでこっちに帰ってきたのですが、もとの職場にポストはありませんから、それはもう、かなり就職活動しましたね(笑)本の売込みにあちこちのマスコミにも行きましたよ。それがきっかけでさまざまな業界の方々と知り合いました。そのときからの人間関係が私の財産ですね!!」と断言される。
それにしても迷いに迷ったとはいえ、一度得た大学のポストを捨てて、山梨に行ったとは。同じ家庭を持つ女性として、谷崎よりも、たつみさんのその生き方のほうに興味がわいてきた。そのときの決断のポイントをお聞きした。
まず「大学教師」をはじめさまざまな自分の属性を紙に書き、捨てられるものからごみ箱に捨てたそうだ。一番初めに捨てられたのは「妻」。最後まで捨てられなかったのは「母」だったらしい。当時、まだ生まれたばかりの長男の子育ては両親が揃っている環境で…と夫の赴任先の山梨に行かれたという。
阪神間サミットを開催。しかし、阪神大震災が・・・
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西宮でアメリカ博
昭和25年に西宮球場で開かれた博覧会。アメリカ1周の野外大パノラマが呼び物で、サンフランシスコの金門橋やナイアガラの滝、自由の女神などが再現されていたという。また、屋内では、絨毯を敷いたリビングや電化製品が並んだキッチン、ベッドのある寝室など、アメリカの暮らしが展示されていたらしい。 |
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「芦屋の谷崎潤一郎記念館の立ち上げにも関わったりしましたが、平成元年に再び武庫川女子大に戻ってきました。そして、河内厚郎先生、南野武衛さん、当時阪急の土居勉さん、コープランの小林郁雄さんなど、研究家グループが集まって『阪神間サミット』を開催したのです。
今度はぜひ阪神間モダニズム展を…というときに震災が起こりました。その頃、私は谷崎潤一郎から川端康成へと軸足を移しかけていたんですが、震災で谷崎に関係する大切な建物がつぶれた(泣)建物にこだわり、場所にこだわって研究した私が立ち上がらねば〜ですよね!!」
関東大震災のあと、関西に居を移した谷崎潤一郎ゆかりの建物が震災でつぶれた。何か因縁めいたものを感じた。しかし、この後の出会いの妙が、それからの活動に大きな影響を与えることに…。
すばらしい匠たちとの出逢いが、鎖欄閣を復元させる原動力に
「壊れた鎖瀾閣(さらんかく)の前に佇んでいる時に、向井さんという大工の棟梁に出会ったんです。この人は、鎖瀾閣(さらんかく)の建物に合わせた門を作った人だったんですね。『こんな建物は、もう出来ないですよね?』と言った私に、その棟梁はさらりと『ワシなら出来る』と。その言葉を聴いて、あぁ、もう一度建て直すことが出来るんだ〜って、思ったんですよ。
そのことがきっかけで和風建築物を見て回ることになったんですが、伊丹緑ヶ丘公園の鴻臚館(こうろかん)を見た時には感激しましたね。ところがなんという偶然か、まもなくあるシンポジウムでその鴻臚館を建てた建築家・澤良雄氏とご一緒したんですね。意気投合し、鎖瀾閣(さらんかく)の写真を一杯持ち込んで設計図を起こしてもらったんですよ。(笑)
建物って、縦横の比率などで推測できることも多く、「部分」の集合から「全体」を立ち上げる。そんな作業の集積で設計図が出来たのです!!」
写真をもとに設計図を起こし完成した「鎖瀾閣」の模型
実は、最初に出会った大工の棟梁向井さんは職人さんなので設計図は『自分の頭の中』というタイプの人だったようで、復元活動をするためにはどうしても設計図や模型が必要だったという。まさに、出会いの積み重ねが、たつみさんの後押しをしたようだ。
ここから一気に、鎖瀾閣(さらんかく)の復元委員会が出来上がり、現在は建設に向けて地元の住民と最後の話し合いの最中。
『痴人の愛』が書かれた苦楽園の万象館。『細雪』には西宮の地名も
「谷崎は創作のときに、そのイメージに合う家を求めて何度も引越ししているんです。関東大震災のすぐ後は京都に住んだんですが、京都は寒くてイヤだったみたいですね。
当時温泉があった苦楽園の万象館(現在の苦楽園4番町辺り)で『痴人の愛』を書いています。私が谷崎に入ったきっかけの作品ですね。
温泉街で暖かいし、眺望がいいし瀬戸内海の魚など食もいい…とここを谷崎は非常に気に入ったようです。そのときは温泉街に滞在という形で、その後神戸や大阪を転々と住むのですが、もう一度西宮に住む時代があります。現在の西宮市相生町辺りにあった根津家別荘別棟です。谷崎が西宮に住んだのはこの2度だけなんですが、『細雪』には西宮の地名がたくさん出てくるんですね。
その頃は西宮が圧倒的に開けていたからモデルとして登場させやすかったのでしょうね。いわゆる、『阪神間モダニズム』の頃ですから。」
取材の始めに、「西宮とのつながりで話ましょうね」と、言って下さっていたが、ここでようやく西宮が登場。「やっと西宮にたどり着いた!!」と思わず二人で笑ってしまった。
『細雪』にも登場する一本松のある風景(平松町・常磐町辺り)
「『細雪』に出てくる西宮の地名と言えば、もう有名な話ですがマンボウやそこを抜けた所にある一本松(現在の平松町・常磐町辺り)、料亭の播半ですね。
それから夙川の河原を歩いている風景もありますね。もう一つ、奥畑啓三郎という登場人物がいますが、この奥畑って言うのはニテコ池の近くの地名なんですよ。
『阪神言葉』って言うのは関東大震災の後、関東から移り住んだ人たちが持ってきた東京弁と関西弁が融合したものといえます。
西宮というか、阪神間の人たちは新しいものを受け入れる土壌があるんですね。
ようやく話が西宮につながってホッとしたところに、たつみさんは面白い話を披露してくださった。
「私の母は、結構日本人離れの顔立ちで、早くから洋装をしていたんですね。で、生まれてすぐ位の私を抱いた母が、どこかアメリカの邸宅風の前で立っている写真があって、『お前は小さい頃アメリカに旅行に行ったんだよ』と父から話されていたんですね。で、それを30歳過ぎまで信じていた。
ところが、阪神間の建物をいろいろ調べていたときに、『西宮球場でアメリカ博をやった』という記事を見つけた。あぁ〜、騙されていたんだ(笑)って。
当時日本人の憧れであったアメリカの文化的な生活の展示会だったんですね。
西宮って言うところは、昭和25年に世界的な博覧会が出来る土地だったんですよね。だって、その当時の写真を見ると、うちの母のような洋装は少なく、圧倒的にまだ着物の人が多かった頃ですからね。この後、井上靖の『闘牛』にも西宮球場は登場していますね。」
谷崎からは脱線したが、元気な西宮の様子を教えてもらった。しかしその球場も今はない。
これから注目したいのは北口周辺。猥雑さを残した街になってほしい
「私の宝物なんです」というゼミ生がデザインしたのれん。
「今、西宮球場の話しをしましたが、これからの西宮で一番注目しているのは北口周辺ですね。球場跡が再開発されるわけですが『猥雑さ』を残して欲しいですね。
新しく開発されるものと古さが共存する街になって欲しいと思っています。ただ、今は阪急の線路で十字に分断されていて、あれは分断して欲しくないですね。でもそれが実現したとしても、それまで私は生きてないでしょう(笑)」
20年前、谷崎旧邸の保存運動を地元の人たちと進め、『倚松庵』と名づけて移築に成功し、現在は『鎖瀾閣(さらんかく)』の復元運動に力を注いでいる。
小柄なたつみさんのどこにそんなパワーが秘められているのだろうかと思う。でも、研究室に飾ってある卒業生からの贈り物という暖簾に書かれている『たつみ組』と言う文字に、たつみさんのパワーのもとが学生であるような気がした。